利賀を彩った人々PEOPLE

1913年~2012年。
音楽評論家。元水戸芸術館館長。主な著書に『二十世紀の音楽』、『モーツァルト』、『音楽展望』など。

利賀山房の《リア王》
 利賀の国際演劇祭にいってきた。三年ぶり。前は《三人姉妹》などを見たが、こんどは《リア王》ほか。
会場の一帯は建物が少しふえたようだ。特に一つ二つ例の合掌造りの力強い外観を残しながら、新しいだけでなく、いかにも自信あり気に立つ建物が目をひいた。あたりの丘陵に密生して直立する木々の深い緑、その丘に囲まれた細長い盆地の中心を走る川の清らかな流れ、セザンヌの南仏を思い出させずにおかない赤い土と石。こういうとりどりの色の中で、渋い茶色の建物たちは申し分のないハーモニーをつくる。家の内装外装からその配置に至るまで全部鈴木忠志氏の構想によるのだそうな。演出に限らず、この人のすることは何事につけ一定の好みとコンセプトが感じられる。それが自然の在り方と芸術の伝統から離れないで新しい形象の創出に向かってゆくのである。その全体の明確で生き生きした躍動性を感じとることは私には大きな愉楽だ。
今日から演劇祭が始まるという朝、目をさますと、それまでの長雨と曇天の鉛色が淡い白青色の空に変わっていた。やがて、あたりが強烈な夏の光に照射されて輝き出す。川沿いの小径を歩いてみると、空気のおいしいこと。
前にも書いたが、この演劇祭の魅力は舞台上の出来事に局限されず、それをとりまく大自然の協力を肌で体験する点にもある。そうして、芸術というものが、いかにそれを受容する時と場所の如何で変わって来るかを知ること。自然・人間・芸術の微妙複雑な繋がり方。
今年の「鈴木版リア王」にも、例によって、まず異化の仕掛けがある。それによると、これは死を間近に控えた老人の最後の数刻のドラマである。老人はそばで《リア王》を読み興じている看護婦をみてるうち、だんだん衰弱してゆく意識の中で、自分を悲劇の主人公と錯覚しだし、大勢の登場人物の幻影を呼び起こし、それといっしょにすさまじい劇を展開するのを味わった末、死んでしまう。
《リア王》は手のつけようのない愚かさから始まって、残虐の限りをつくす強欲と奸計と裏切りを重ねて恥じない人間たちの底知れぬ「悪」の絵巻のような劇である。その中に、ごくごく少しの愛と忠誠の表明も提出されるが、たちまち悪の奔流に呑みつくされてしまう。鈴木版は、万事が終わった所で、本を読み終えた看護婦の高らかなバカ笑いで終結する。
人間は愚かで、悪の塊でしかなく、すべては滑稽でむなしい。
東京のような大都会で、この終末をみたのだったら、私は一糸乱れず展開される舞台の迫力にただただ圧倒されてしまったろう。いや、これは、かけ値なし、私のみた最高の上演の一つだった。ただ、利賀の大きな自然に包まれてみていた私は、この「人間的な、あまりにも人間的な」次元を超えた、もう一つのもののあることを憧れをもって予感せずにいられなくなった。しかもそれは、シェイクスピアのテクストに、それから鈴木氏の演出の頂点に、読みとれる形で出てもいたのだ。
鈴木版では女の役は男優によって演じられる。これも、異化のふるいにかけることで、女をよりよく認識する方法だと説明されていたが(それなら、男を女優が演じてもよかった?)、私には「男の演じる女」の最初の違和感は間もなく消え、「人間は実は男でも女でもない。あるいはどちらでもよい真実があり」それが問題なのだと考えられてきた。もちろんこれはリアリズム演劇と正面からぶつかる芝居の道である。
この上演のもつ緊張力の高さ、強さは大変なものだし、そこには独創的な扱いが幾つもあった。鈴木氏は歌舞伎、能といった日本伝統芸能の装束をとり入れ、科白のつけ方、身体のこなし、足の運び、腰の構えなどなどに及ぶ技法で高度の訓練をうけたアメリカ人たちを登用している(多少の凸凹もあったが、リア王、グロスター卿などを演じた何人かは優秀な人材と見受けられ、日本の装束をつけた彼らの立ち居振る舞いも板についたものだった)。
装束も一見既成のもののようでいて、実はどれもとりどりの断片を縫い合わせた結果であって、その配合の精妙、色の調和も特筆に値する。ここにも例の鈴木氏の好みの確かさがはっきり出ていて、それは効果に使われた音楽の選択にも一貫する特質だった(崇高なまで悲劇的で清らかなヘンデルのラールゴと、肉感的で卑俗で刺激的なチャイコフスキの《イタリア狂想曲》の2曲だけを適時使いこなして、情景の対照を隈どったり造型する手法)。
意志の強さ、狙いの高さに応じて、この人のとる大胆な手法はほとんどいつも極端にまで押し進められるが、どんな時も、キッチュにならない。これは昔から今に至るまで、この国の芸能に氾濫しているキッチュへの強い傾きの中で、例外といっていいのだろうか。
ただ、彼のは、歌舞伎と同じくらい表現主義芸術に根ざしているので、表現主義流のあの声高で荒々しく叫ぶしゃべり方が、ほとんどいつも、そうしてどの人物にも同じように使われているので、必要以上に多くを一色に塗り潰す傾向を生み、私をひどく疲れさせた。
私はこの《リア王》を利賀山房での総稽古でみた。ここの黒一色の舞台では、つき当たりが幾本かの太い柱と重い引き戸とが交代するようできているのだが、老人の幻想が働きだすと、その数ある引き戸が一斉に開かれ、その一つ一つに、前述の装束の人物たちが仁王立ちに立ちはだかっている。それぞれ違うけれど、どれもみなものものしい姿で立ち並んでいるその光景は、みるものに思わず息を止めてしまうくらいの重々しくて悲愴な衝撃を与えずにおかない。
もう一つ。終わり近く、悪がつぎつぎ倒れたあと、今いった引き戸のまた一つうしろにある壁面がパッと左右に引き裂かれたかとみると、そこにリア王が扼殺されたコーデリアを脇に抱えて立っている。これもすごい光景で、思わず背筋に戦慄が走る。それから、リア王がゆっくり舞台中央に進み出るにつれ、「娘を抱いた父」の姿から放射されるものはどんどんクレッシェンドする。
リア王はコーデリアを別の死体の上に 「くの字」を横にしたような形で重ねる。コーデリアの死体は背筋をしゃんとのばし、両腕も両脚も思いきりのばして横たわる。髯のある彼女の頤は鋭い角度で上向きにおかれ、長い間動かない。それをみて、私はかつて死せるイエスを同じような形で描いた絵をみたことを思い出した。その絵でも、イエスを両膝にのせた聖母より、死体の方がピエタの象徴だった。
鈴本氏はテクストを適宜取捨したり、おきかえたりしたという。私にはそれを原文と比べてききとる力はない。ただコーデリアが生前父と会う最後の場で、父から「涙で濡れてるのか、泣かないでくれ。お前の姉たちには弁護の余地はないが、お前こそ私を訴える理由があるのだ」といわれ、「とんでもない。何の不満がありましょう」と返事するところがある(これは逐語訳じゃない。原文は"You have some cause, they have not." "No cause, no cause.")が、私にはそれが聞きとれなかった。なぜ? 私は愛の最高は無条件のゆるしにあると信じる。このコーデリアの一言は、悪と愚の支配する人間界に射しこんだより高いものの一条の光なのだ。慈悲の娘と改悛する父の二童の像をあんなに感銘深く造型したことと、この一句を削ったことと!
(朝日新聞 1988.8)