利賀を彩った人々PEOPLE

1940年生まれ。
ドイツ文学者。主な著書に『ウィーンの世紀末』、『ゲーテさんこんばんは』、訳書にフランツ・カフカ『変身』、『城』、『失踪者』など。

利賀村で全身に感じた興奮
 うねうねとした道をバスは走りつづけた。里を出て坂にかかり山に入った。山が切れてもすぐまた次の山が現れる。やがてダムで出来た細長い湖水が見えてきた。ひとつハンドルをあやまれぱ、もんどり打って転がり落ちるところである。ようやく分水嶺を越えたのだろう。道が下りになった。しかし走っても走っても一向に目的地に着かないのだった。
富山駅で高山線に乗り換え、越中八尾で村営バスに乗ってからのことである。今月初めのある日、私は富山県の利賀村に向かっていた。そこでは毎年夏になると演劇祭が開かれる。いろんな国の演劇人や舞踊家がやってくる。芝居好きには、ちょっとした聖地巡礼のおもむきがある。
五箇山の合掌造りで知られる山里は夏が遅く、秋が早い。お盆がすぎると朝には一面の濃霧が立ちこめる。冬には積雪が軒をこす。今年は特に暑さの到来が遅かった。稲の発育が心配だと民宿のおぱさんが話していた。この夜、窓の外で夜通し鳥が鳴いていた。
演出家の鈴木忠志が利賀村に根を下ろして10年あまりになる。「世界は日本だけではない。日本は東京だけではない。この利賀村で世界に出会う」というのが、第1回世界演劇祭のスローガンだった。スローガンを作るのはたやすい。スローガンを実現するのはむずかしい。それを維持しつづけるのは、もっとむずかしい。利賀村ではそれが実現している。ここに来た人は、まさしく「日本は東京だけではない」ことを痛感する。たとえこの時期、ここにいるのが多く東京人だとしてもである。
池のほとりの野外劇場ではニュー・ミュージックがとどろいていた。前衛的なダンスが披露された。鈴木忠志のチェーホフは年季が入っている。第三エロチカや岸田事務所といった若手の劇団が公演をした。祭りは12日間つづいた。私はほんのちょっぴり立ち会っただけだけれど、この上ない満足を覚えた。公演の出来ばえとともに--あるいはそれ以上に、久しぶりに祭りの原点といったものに触れた気がしたからである。裏山を背景とした野外劇場は、昔、むしろの上で見た村芝居のときとそっくりだった。始まるまでの間、全身にひしひしと興奮を感じた点も同じである。からだをくっつけ合って坐っていると、腰のぬくみがこころよかった。終わったあと夜ふけの道を押し黙って帰るすがら、川音を聞いた。かすかに土の匂いがした。
この夏も仙台の七夕祭りや、青森のねぶた祭りをはじめとして各地で夏祭りがあった。人出はときには百万をこえる。多くがもはや町や村の祭りとは縁遠いのだ。観光業者や交通機関やマスメディアなど「現代」が生み出した化け物じみたイベントというべきだろう。テレビ向きの「ふるさとの祭り」といった演出がこらされていれぱいるだけ、皮肉なことにその分よけいにふるさと性からはなれている。
利賀村の演劇祭もまた人工的な夏祭りの一つにちがいない。それは文字どおり名うての演出家と、過疎に悩む一人の村長との出会いから始まった。しかし、人出を集めるには、いたって遠廻りないき方だろう。しばしば難解な「芸術性」がなまなかな人々を寄せつけない。それにお目あての「場」にたどりつくまでの不便さが移り気な客を拒絶する。
だが、理想をバカにしてはいけない。それはしばしば抜け目のない現実主義者が夢想だにしないことを実現するものである。利賀村には芸術空間にもまして一つの奇妙な空間が生まれていた。仮にそれを「ふるさと空間」とでも呼ぶとしよう。目に見えないにせよ確実にそれは生まれている。地道な、ねばり強い努力によって芽をふき、根をはり、枝をのばしている。
ある人は8年このかた通いつづけている。別の人は夏のシーズンだけではなく何メートルもの雪に埋もれた冬にも来た。風の冷い春にもきた。あきらかにここに「ふるさと」を見つけた人だ。お盆のころにどっと自分のふるさとに帰る人々を、半ばの自負心と半ばの羨望をこめて眺めてきた都会人だろう。芸術を通して地方と都会の逆転現象が生まれている。
それを幻想というのはたやすいが、しかし実をいうと、芸術の生み出す幻想こそ現実以上に人を動かし、人を変えるものではなかろうか。ちょうど今、東京では「ターナー展」が開かれているが、イギリス人が霧や靄の美しさに気づいたのは毎朝の散歩によってではなく、一人の画家のカンバスによってであった。この夏にも何万もの人々が南仏アルルを訪れたが、もはやゴッホの描いた以外のアルルは存在しないのだ。つまり先のスローガンをもじって言えば、利賀村で私たちが出会うのは地理上の「世界」ばかりではないのである。
(聖教新聞 1986.8)