利賀を彩った人々PEOPLE

1936年生まれ。
演劇評論家、歌舞伎研究家。主な著書に『女形の運命』、『忠臣蔵』、『俳優の運命』、『四代目市川団十郎』など。
 
講座「日本の世界を考える連続講座」第3回 利賀山房 (SCOTサマー・シーズン2015)

利賀村への旅
一、
東京から6時間、汽車にのりつづけると車窓に少しずつ北陸の山なみがみえてくる。その山なみの奥、富山県利賀村の世界演劇祭をみにいった。日本でははじめてというこの演劇祭は、鈴木忠志が今度創立した国際舞台芸術研究所の主催で行われ、世界6力国(アメリカ、インド、ブータン、イギリス、ポーランド、そして日本)10劇団が参加した。
私は7月23日の、オープニング・レセプションから4日間、その前半をみた。私がみたのは、鈴木忠志の「トロイアの女」、ジョン・フォックスの「荒地とせきれい」、そしてロバート・ウィルソンの「つんぼの視線」であるが、この3本の芝居も含めて、そこで出逢った人々、村の風景、どれも忘れがたい。わずか3泊4日の短かい旅であったが、この旅自体が私には一つのドラマであった。

二、
利賀村には、今までの利賀山房の外に新しく一つの劇場ができた。
磯崎新の設計になる野外劇場である。三方を円型の客席に囲まれ、一方が舞台、その舞台の背景が池に向ってポッカリロをあけている。舞台は黒い二本の柱と同色の床の上下の橘懸り、正面の矩形のスペースから成り、舞台前には砂利が敷いてある。この劇揚の大きな特徴は、基本はギリシャの野外劇場風でありながら、柱と砂利、舞台の床の奥にうめこまれた小さな岩が、日本的な感覚を想像させる点にある。黒と灰色のシンプルな劇揚の内部へ入るとまず私たちはギリシャの西欧的輪郭から日本的な舞台構造へ、そしてあの黒い床にうめこまれた岩から池の面へと導かれる。つまり岩と砂利は虚構のものであると同時に自然への媒体であり、私たちはギリシャ的な感性から日本的な自然への調和を歩くことになるのだ。
客席に坐ってみると、舞台の黒い二本の柱に区切られて、まるで額緑の中の絵のように利賀村の自然が生きている。大きな池、池の向うの木立(まるで能舞台の影向の松のように木立がみえる)、その向うにひろがる緑の山。しかも池の中には勅使河原宏の、竹の幹を根もとから裂いて逆さに立てた不思議な竹の林が立っている。そしてその竹林には白い一筋の布がたゆたっている。布の一本の端は麻の縄になって舞台の上手の柱に到り、もう一本の端は池の向うの木立に消え、さらにその先をたどると山の中腹に傘のようなかたちをした竹があって、そこへ達している。それをみれば、この装置がなにを意味しているかははっきりしている。山の中腹の装置は、山の上にひろがる天空から神の降臨するよりじろであり、一本のあざやかな白い布の軌跡は、降臨した神の舞台への通い路である。その通い路を通って神は舞台にいたる。舞台で演じられるものは、たとえそれがギリシャ悲劇であれ能楽であれ、この神のまなざしのもとに吸いとられる大きな構造をもっている。その意味でこの装置は、能の鏡板の松のように自然を一つの神秘的な実体としてとらえ、そこに象徴的な意味を与えると同時に、劇場全体の大きな背景を形づくっている。
この劇場でオープニング第一夜に、私は鈴木忠志構成・演出の「トロイアの女」をみた。今度の「トロイアの女」はほとんど新装改訂版といってもいい。その新装改訂版の要点は今度はじめて舞台に設定された一人の若い男に象徴されている。この青年は、アンドロマックが強姦され、コロスの一人が惨殺されたあとに下手からこうもり傘をもってあらわれる。上手でギリシャ軍の兵士たちに強姦されたアンドロマックがシミーズ一枚でフラフラと立上ると、音楽が入る。アンドロマックは下手へ歩いて行き、下手から傘をさして出て来た青年とすれ違う。このシーンをみていて私は、舞台に降る雨を想い、その雨の中をこういう運命の中ですれ違っていた敗戦後の日本の若い男女のことを想った。むろんあの青年がアンドロマック――というよりも占領軍の兵士たちに強姦された女の恋人であるかどうかはこの芝居をみているかぎり知る由もない。しかしあきらかにそこにはギリシャ2000年の昔から変らぬ雨が降り、いつの世にも変らぬ悲惨な運命の廃壊の中に閉じこめられたものの絶望が美しく輝やいていた。
青年は女とすれ違ったあと、上手の岩の上に客席に背を向けてすわる。下手の岩の上にはすでに幕開きにあらわれたもう一人の青年が池をみてすわっている。ここで二人の青年の想いが一つになり、池の水面にうかぶあの竹林がほのかに暗闇の中にうかび上る。ドラマの外にあふれ出た感情のしたたりは、暗い水面を伝って遠く竹林の向うの闇にひろがっていくのである。
私はこの不思議な美しさにうたれていた。ここで示された感覚は、単にこのシーンにだけあったのではない。白石加代子のヘカベが殺された孫の死体を拾いに上手へ歩いていくところにも、メネラオスと問答するときにも、そして最後にあの老人のかすかなつぶやきにも流れている感覚であり、舞台全体に一つのトーンをつくっていた。それは現実と夢の交錯するところにうまれた不思議な感覚であり、かぎりなく哀切で美しいものであった。
私は今まで何度か「トロイアの女」をみてきたが、一度もこういう感覚に出逢ったことがなかった。この微妙で繊細な美しさは、しかし洗練されたから出て来たものではない。実は一つ一つのシェークエンスが象徴的な構造をもったからこそあらわれて来たものである。その証拠にあの残虐な殺しや強姦が、いつもより生々しく、しかもいつもよりつよい抽象的な力をもっていたし、ヘカベは老女の無惨さと同時に老いの美しさとでもいうべきものをもっていた。全てはこのドラマが密室の虚構の空間を出て、夜空のもと自然の生理に調和しようとしたために獲得した象徴性のためである。

三、
二日目の夜は土砂降りの雨であった。テレビでは前夜の長崎の大雨の惨事を報道していたし、前線が北陸へ近づきつつあることを報せでいた。その雨の中で私はジョン・フォックスの「荒地とせきれい」をみた。野外劇で、会湯は利賀村の五箇山スキー場のゲレンデである。夕闇の迫るロッジに行くと、すでに扮装をした役者たちが雨の中で音楽を演奏しながら歩きまわっている。そこでいくつかのグループにわかれ、道化に案内されてゲレンデの小道を登って行く。道の脇に小さなせせらぎがあリ、その川べり、かしくの森かげに、子供が笛を吹いていたり、小さな仕掛けものがあったり、大きな人形がつくられていたりする。それを道化がいちいち説明していく。その説明を聞きながらいつの間にか私たちはゲレンデの中腹にまで来てしまうのだが、実はこのかざりものがこれからはじまる芝居のイメージを暗示しているので、このプロローグの間に人々は日常の現実に呪縛されている想換力をもみほぐされ、自由へ解き放たれるのである。
ゲレンデの中腹に立つと道化が吹きすさぶ雨と風の中で臘燭の火を立てて目の下の風景をみろという。夕闇の中、足もとに遠くの村の森、点在する人家。その間を逢う道をヘッドライトをつけた自動車が一台走っている。雨に曇る山なみ。そういう自然が私たちの前に迫ってくる。この大雨の中でも芝居がはじまるだろうかという不安の中でみたこの風景を私は一生忘れることができないだろう。
そこではじまった芝居はシェイクスピアの「リア王」を原典とした道化芝居であった。フォックス自身が仮面をつけたリア王になり、芝生の中央の大きなダンボールの中にすわる、このダンボールは王の玉坐であると同時に便所であり、つまりここには「リア王」と同時にアルフレッド・ジャリの「ユビュ王」のイメージが重ね合されている。この王にはS・S(忍者)と呼ばれる黒づくめのグロテスクな家臣がいて、この男(女優が演じる)がたえず王を殺し王国を奪おうとしている。王には三人の娘がいて、二人の娘は王に追従をいって王国の三つの鍵のうち二つを貰い、末娘の空の王女(男優が顔を真蒼に塗って演じる)が迫従をいわなかったために追放される。王に諌言した道化はS・Sのために惨殺される。道化の冠は城をかたどったものだが、そこから脳がひきづり出され、最後にはそこから万国旗が出てくる。S・Sの魅力にとりつかれた二人の娘はS・Sにほれてたがいに殺し合い、勝った方の娘もS・Sに殺され、リア王は盲目にされる。S・Sのために一家は滅亡し、鳥になる。
物語は大体こういうことなのだが、このドラマが蝋燭の光りの中で、大道芸人のような感覚で、しかももの悲しく単調な音楽によって演じられる。その感覚はグロテスクで、汚辱と残虐さにみち、同時にユーモラスで野性的である。たとえば道化の殺しもそうだが、王女がもう一人の王女を殺す時も、王女のグロテスクな乳房が突然火を吐いて王女を倒すのである。最後のシーンもそうだ。芝生の上へ全員が倒れ、その上にS・Sが白い布をかけると、その白い布の下から殺された人間たちが、黄色い嘴、黒い頭の鳥の面をつけてあらわれる。このグロテスクな感覚、仕掛けはなんともいいようがないものであった。
およそ30分あまり、私はこの芝居をみてさながら利賀村の山中に西欧の中世の風景があらわれるのをみた。雨の中で駈けまわる大道芸人、単純で迫力のある仕掛け、残虐さと野放図なヴァイタリティとわい雑さ。そこにあらわれたドラマは、遠い異国の中世の昔話のようでもあり、しかし今まさに無類の迫力をもつ面白さでもあった。
この芝居が終ると道化が後をふりかえれという。いつの間にか私たちの背後に次のシーンがつくられている。そこには今そこでみた鳥たちが巨大な鳥籠に入れられ、その前に大きな食卓がある。食卓には殺された筈の王と二人の娘が呼ばれる。二人の娘は一人はソ連の象徴で、もう一人はアメリカ風の女である。グロテスクで淫蕩な食事が終ると、食事の間中周囲の草原でおこっていた戦争と虐殺が最高潮に達し、二人の女と一人の王は三つの鍵を地球のつくりものに差込む。そうすると地球が爆発して、暗闇の山頂から巨大な魔王のつくりものがあらわれるのである。この瞬間はこの大仕掛けな芝居の中でももっとも迫力に富む場面であった。はるかな暗闇の向うからかすかな一条の光りに照されて迫ってくる巨大な魔王。それが殺された王、食卓の王の転生した姿であることはあきらかだが、いまそういう解釈はどうでもよい。暗闇の中をユラユラと少しずつ坂をおりてくる魔王は、世界の終焉にむかってゆっくり進んで来る一つの革命そのものであった。しかし私たちの目前まで来たとき、この魔王を含めて全ての者が斃れ、ホロコーストが終る。廃墟の中に一羽のせきれいの歌声だけがかすかにのこるのである。
第三場は、この斃れた魔王の死骸をかついだ行進である。その前に私たちは、スキー場のリフトを降る巨大な四体の骸骨をみて体の向きをかえる。そうすると思いがけなくもゲレンデの山裾に遠く白いスクリーンがはりめぐらされ、その地点にむかって足もとはるか美しい灯のつくる道がつくられている。突然音楽がはじまり、巨大な魔王の死体をかついだ大男の踊り手たちの行進がはじまる。その行進につづいて私たちもまた山を降りるのである。
行進が山裾までつづいたあとスクリーンを使ってリア王とせきれいの影絵の芝居がある。これはこの芝居の中でたった一つ面白くないところであリ、第一なんのことだかよくわからなかった。
影絵が終ると次のシーンは、スクリーンの脇の広場での魔王の解体である。よみがえった道化が大きな鎌をふるい、彼の肩にのった王子が魔王の臓腑から、とんぼやノアの方舟やせきれいなどのランタンを釣り出す。これらのものは、最初私たちがみたあのせせらぎの仕掛けもののイメージと照応している。あのイメージは夕闇の自然の中で日常的なものであったが、いまは透明な精霊のランタンとなって暗闇に輝いている。リア王の伝説、ホロコースト、影絵を経て、ものは一つの霊になったのである。最後はその精霊のランタンをかついで出発点へ戻った全員の総踊りである。
私がこの芝居に感動したのはむろん雨のためばかりではない。この作品が近代の劇場が排除してきたもの、なまのままの自然(夕闇の中の山から自動車のヘッドライトの照らす野道にいたるまで)、つくりもの(人形から花火や爆竹、影絵から魔王のつくりものにいたるまで)、あるいは大道具からページェンドにいたるまで、神話から幻想にいたるまで、そういう近代劇場が排除した全ゆる雑ぱくな手段を使って、みごとなもう一つのドラマ――旅をつくっていたからである。

四、
三日目の夜、私はロバート・ウィルソンの「つんぼの視線」をみた。これはまた「荒地とせきれい」とは対照的な舞台で、利賀山房の白一色のセットの中で、男(ウィルソン)と女(杉浦千鶴子)が、二人の子供にミルクを飲ませ、ナイフで刺殺する、ただそれだけの芝居である。その間1時間20分。せりふは一言もなく、沈黙の中で全ての動作がほとんど目にみえぬ位のゆっくりした速度でおこなわれる。
これを「ミニマム・アート(極限芸術)」というのだそうだが、なるほどここにはフォックスとまるで違う人間の身体、行動を純粋に追求する姿勢があり、人間の動きを顕微鏡で拡大するような面白さがある。
私はこの芝居をみていて鏡の部屋にいるような気がした。だれでも気がつくように、女と男が同じことをするのは、女が男の鏡であり、二人で実は一役だからである。この鏡によって男の存在は抽象化され、無限に空間にひろがっていく。それをみていると白い装置の向うに鏡が幾重にもひろがっているようにみえ、その中で人間の日常的な動作が分析されていくのである。
こうして人間の行動が分析されてみると、子供に牛乳を飲ませるという日常的な行動も、子供を刺殺するという非日常的な行動も、実はほとんど同じ比重をもって中有にうかんでいる無目的なものにみえる。むろんこの揚合の行動は、全ての物語の文脈、人間の性格、心理、その他諸々の近代劇的な要素から切離されている。切離されてみると人間の行動の瞬間には、行動の目的を分解してしまうようなものがあることがはっきりする。
このことが実は私たちを重要な指摘に導く。すなわち人間は自分が意識しているように自分自身の目的のためにだけ動いているのではないということである。たとえばコップをとるという目的のために手が出るのではなく、手が出るからコップをとるというように、そこには日常的表層的な目的とは別なもう一つの身体の論理とでもいうものがかくされているということである。
ロバート・ウィルソンの肉体はそのもう一つの論理を実に鮮かに描いている。彼の動きは終始何者かに憑かれた操り人形のようなものであった。コップをとろうとする手がふるえ、指が不自然に動く。それはあたかもウィルソンの内面でなにかが闘い、あるいは彼が必死でなにものかに耐えているかのようにみえる。しかし実はそうではない。内面の欠如を示している。彼が集中すればするほどそこにあらわれてくるのは、彼の身体そのものの論理以外のなにものでもない。
私は彼が最初の子供を殺した時に、この少年殺しがウィルソンの身体に固有の論理をもっていることを感じた。イヨネスコの「授業」の教師が少女を殺すのと同じ狂熟がこの身体を犯している。それは教師やウィルンンの意志というようなものではない。身体そのもののもつ力である。そしてそのカが舞台いっぱいにひろがったのは、彼が二人目の少年を殺そうとして客席をふりかえった時であった。彼の顔は異様にひきつって人間の顔とは思えなかった。眉をひそめ、その眉の下に異様に光る眼、だらしなくひらいた唇。もしこれを人間の顔だとすれば、それはほとんど偏執狂のものであった。この顔とそれにつづく不自然な動作。上体だけを無理に折りかがめて寝ている少年を刺すという行動。しかもこの男の全体をつつんでいる性の法悦とでもいうべき雰囲気。私はこの男が本当に少年を殺してしまうのではないかという不安に引きずりこまれた。そしてこれこそが実はこの男の身体を動かしている論理にほかならない。
この事実は私に絶望的な衝撃を与えた。なぜならば、この論理のもつ力こそ全ゆる人間の背後にあるもの――人間の行動を写すもう一つの鏡だったからである。

五、
三日の間に三本の芝居をみて、私は東京へ帰った。東京へ帰ってみると三本の芝居の印象を含めて、私には遠く利賀村の姿が心にうかぶ。利賀村はいくつかの幻想をのせた一つの大きな世界であり、一つの舞台である。その舞台の上で私はさまざまなことを考えたが、考えると同時に私自身もまたその中で観客を演じ、旅人を演じた。だから利貿村への旅とは――それ自体私にとって一つの作品であった。
(テアトロ 1982.10)