利賀を彩った人々PEOPLE

1953年生まれ。
エコノミスト。法政大学教授。主な著書に『100年デフレ』、『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』、『金融大崩壊』など。
 
連続シンポジウム「現在をどう見るか」第2回  創造交流館芸術劇場 (SCOTサマー・シーズン2008)
連続シンポジウム&トーク「現在をどう見るか」第2回 スタジオ (SCOTサマー・シーズン2009)
連続講座「大震災以後の<日本>を考える」第2回<経済の視点から> 利賀山房 (SCOTサマー・シーズン2011) 
連続シンポジウム「〈何が〉変わらないのか!?―〈3.11〉以後の「ニッポン」」第2部 (SCOTサマー・シーズン2012)
シンポジウム「私たちは、どこに向かうのか?!」 新利賀山房 (SCOTサマー・シーズン2014)
講座「日本と世界を考える連続講座」第4回 利賀山房 (SCOTサマー・シーズン2015)  
 
 
利賀村の神様
 8月末、富山県南砺市利賀村の「シアターオリンピックス利賀」に参加し、「神様」に会ってきた。近代化とは脱宗教化であり、その過程で「芸術が宗教となり、芸術家が神の位置に昇りつめた」 (松宮秀治『芸術崇拝の思想』)のである。芸術家・鈴木忠志氏主催による利賀フェスティバルは利賀村で30年近く続いており、世界14カ国から参加し、今回の演劇は昨年以上にパワーアップしていた。
鈴木氏は芝居をやっているのではなく、世直しをやっている。経済や政治だけが、グローバリゼーションがもたらす負のさまざまな問題が噴出する事態に直面してどう向き合うべきかを模索しているのではない。芸術文化の領域においても、「人間の生き方を考え…(中略)多くの人々に問いかけることを仕事の旨とする芸術家までが…未来にむけての現状変革の志を持っていないことは、大いに憂うべきこと」(鈴木忠志)である。
鈴木氏が演出する視点は「世界は病院である」。その憂いは「リア王」や「廃車長屋のカチカチ山」を観ると痛いほど伝わってくる。格差社会の底辺で生きている日本人「タヌキ」と陸の時代到来で輝いているロシア女性の「ウサギ」の不倫を通じて、自動車王国・日本で廃車の山と化した長屋でニッポン一となることを夢みたタヌキを愛すべき姿で描いている。タヌキは重傷を負ってしまうところで劇は終わる。近代化日本の最大の危機を訴えているようだ。

東京に行くな
 先日、富山県南砺市利賀村で「廃車長屋のカチカチ山」などを観劇し、次の言葉を思い出した。
「善きキリスト教徒たらんとする者はローマを訪れない方が賢明である」(アンドレ・シャステル『ローマ劫掠』)。16世紀初頭、ローマ教会が腐敗し、ルターなど宗教改革派から攻撃されたときの言葉である。善きキリスト教徒=善き日本人、ローマ=東京に置き換えれば、現在の日本にそのまま該当するのでは、と利賀村で強く思った。
芸術家・鈴木忠志氏が東京の早稲田小劇揚から利賀村に活動拠点を移したのは1976年。戦後資本主義の黄金時代、すなわち近代のピークだった74年と、鈴木氏が近代化の先兵であった新劇の復帰はナンセンスだとして、東京を離れ利賀村から世直しをする時期とが同じである。世直しとは、脱近代社会における精神革命なのだ。近代とは物欲が無限に解放された社会だったが、それが許されないことや「成長すれば、なんとかなる」のは幻想だとみんなが気づき始めた。だから、アクセスも悪く、宿泊施設も足りない人口770人の利賀村に、開催中6,100人もの人が鈴木氏の演劇を観にくるのである。
なぜ、40年も前に鈴木氏は近代のピークがわかったのであろうか。そのヒントは、「芸術家とは演劇を通じて心のなかにふるさとをもち、目にみえないものを信じる人」(鈴木氏)にある。たしか「カチカチ山のタヌキ」も目にみえないものを信じていた。
(東京新聞 2009.9)