利賀を彩った人々PEOPLE

1931年生まれ。
建築家。磯崎アトリエ主宰。利賀山房、野外劇場、スタジオ、新利賀山房の設計者。主な作品に、大分県立大分図書館、つくばセンタービル、水戸芸術館、静岡県コンベンション・アーツ・センター、など。
 
シンポジウム「空間の劇性について」 利賀山房 (利賀山房第5回公演)
シンポジウム「地域と文化」 新利賀山房 (利賀フェスティバル94紅葉)
開幕記念連続シンポジウム「地方の魅力・地域の力」 新利賀山房 (
利賀フェスティバル2003)
シンポジウム「文化・芸術の視点から」 創造交流館芸術劇場 (SCOTサマー・シーズン2011)
シンポジウム「私たちは、どこに向かうのか?!」 新利賀山房 (SCOTサマー・シーズン2014)



表象性に富んだ劇場-利賀フェスティバル'82の舞台空間
 利賀フェスティバル'82、と題された第1回世界演劇祭は、7月24日から8月7日まで、人口1,200の過疎村に延べ12,000人の観客をあつめ、盛況のうちに終了した。
私はたまたまこの演劇祭の舞台となった利賀山房と野外劇場の設計を担当し、通常とはかなり違った舞台ができあがっていたので、これがまったく性格の異なる劇団によって使われる有り様をこの目で確かめるために、今夏も利賀村にかよった。
結論を先に記すと、舞台の設計は、ひとつの特徴を徹底させてあるほどいいということだった。劇団が個性的であればあるほど、独特の舞台空間のなかに奥深くすみつくことのできることがわかった。

利賀山房は、早稲田小劇場が7年前に利賀村の合掌造りを彼らの手によって改造して稽古のための舞台をつくったことに始まった。毎年一度だけの公演の成功が村人たちの支援を呼んで、永久性をもった劇場につくりかえることが決まり、3年前に私は早稲田小劇場の主宰者鈴木忠志から相談をうけた。ここで話し合ったことは、合掌造りの構造体をそのまま生かして、使っていた稽古場の雰囲気をそっくり受け継ぐこと、そして舞台を既存の柱を利用して能舞台の大きさに近づけ、左右に長い廊下状の袖をつくること、などであった。
出来あがった利賀山房の舞台は、合掌造りの小屋組みを全部露出させ、長年にわたって煤けた部材にそろえて、追加した新しい部材もすべて真っ黒に塗られた。舞台の床も、自然発色で黒くしたアルミパネルにしたため、空間全体に闇がたちこめたようにみえる。
薪能のときなどに感ずることだが、日本の演劇空間の原型には、闇のなかから霊魂が立ち現れる、というイメージがひそんでいる。そのような場には合掌造りの内部空間そのままでよく、変に手を加えない方がいい。そのかわりに、ここでの舞台は、木造の架構にしみついた独特の気分が支配的にならざるをえない。
この限定性が早稲田小劇場の舞台にはうってつけであったことは、昨年までに、『劇的なるものをめぐってⅡ』や『バッコスの信女』などの上演で証明されていた。もちろんこの闇のたちこめる空間が、鈴木忠志の演出意図の一部でもあったからで、ギリシャ悲劇でさえ、いちじるしく変質させられ、日本の古典劇をその発生現場でみるような緊迫感がうまれていた。
ここに今年は各国から、まったく個性のちがう劇団が訪れた。舞台が特殊であるために、能舞台でフラメンコを踊るような違和感がうまれないか、という心配があった。だが、ひとつずつ芝居がはじまると、その危惧はふきとんだように思えた。早稲田小劇場がなじんだ闇の空間に亀裂がはいるような、対立的な光景が生まれていたからだ。

初日のロバート・ウィルソンの『つんぼの視線』は、二人の男女が子供にミルクをのませたうえで刺殺するという単純な行為が超スローモーションでなされるだけだが、このひきのばされた日常的な時間のはざ間に、観客が容易にひきこまれていくといった不思議な芝居である。舞台は垂直に吊るされた一枚の白布と同じく床にひろげられたもう一枚の白布だけで構成されていた。そのうえでの行為は三角形をくりかえして描くだけである。丁度ブランクーシの三角形をつないだ無限に延びる塔や、平行しながらズレをおこすミニマル・ミュージックの抽象性に近い。
垂直と水平の白布で切りとられた中性的な空間は、合掌造りの架構が送る数々の含意性をもつ信号と鋭く対立する。行為が瞬間だけに還元されているのと同じく、舞台の空間もそこだけ抽象的に切断されたようにみえる。その効果はおそらく具体性をもつ民家の建築的構造の表象性が強いだけ対立し、いっそうきわだったのだと思われる。
天井桟敷の『奴婢訓』は、数々のエキゾティックで奇怪な機械に囲まれながらも、舞台が日本の東北地方の豪家に設定されているために、合掌造りの内部は違和感がないだけでなく、この芝居のための舞台装置だったのではないかと思うぐらいだった。同時に、寺山修司の演出は私が予想した以上に、狭い空間にひろがりをもたせ、舞台が虚構の空間であることをまざまざとみせてくれた。舞台は左右、奥上方へとひろげられた。中央の壁を破って舞台は外部の裏山にまで突き抜けている。あるいは、天井のはずされている合掌造りの小屋裏へと登っていく。この建物のあらゆる場所にイメージが仕込まれていて、次々にそれが幻覚のように浮かびあがらされた。
舞台のサイズと形式に無理があったにもかかわらず、やはりこの利賀山房の表象性をもった舞台の方が適切だと思えたのがタデウシュ・カントールの『死の教室』である。元来この芝居は大きい部屋の一隅に舞台をしつらえ、観客がL字型に二方向からみるように演出されていた。ところが能舞台よりも狭い舞台では、装置がはみでてしまう。そこで仮設のはり出し舞台で補い、観客が三方からみるという有り様となった。後に東京のパルコ・スペース・パート3で原型にもどした配置で上演されたのと比較しても、やはり利賀山房での方が印象に残る。その理由は、東京の場合パイプなどがむきだしになった近代的なロフトのような空間だったことによるようだ。

今年はこの演劇祭に合わせて野外劇場がつくられた。これは前面の池にむかってひらく舞台をもつ、約800人収容の半円形劇場で、観客席部分はできるだけ忠実にギリシャの原型に近づけようとした。
野外に施設をつくることは、予想もしなかった偶然にみまわれる。まずは設計に際して、手前の池を舞台の背景として役立たせることを考えた。ところが出来上がってみると、この池にぽっかりと姿のいい山が映っているではないか。現地で何回となくこの山は眺めていたのだが、これほど明瞭に生けどれるとは予想しなかった。私にとっては偶然のかかわりで、すばらしい借景をもった舞台の背景が生まれることになった。
この池に蛙が住みついていた。この蛙が雨を呼ぶときだけでなく、舞台の音楽や台詞に合わせて鳴くのである。早稲田小劇場の『トロイアの女』は、そこで蛙の声が絶え間なく重なり合うなかで上演されることになった。
もっと強烈な偶然がかさなることもある。『トロイアの女』の初日に、始まったとたんに雷をともなう豪雨が襲来した。雨音で台詞もかき消されるほどだったが、ずぶぬれになりながら観客も動かず最後まで上演された。
自然現象の介入は、野外で演劇が上演される際には避けられない。完全に人工的な空間で、すべての雑音の侵入も防ぐことのできる劇場は数多くあるが、自然と一体化した劇場は数少ない。演劇は元来自然のなかでなされていたわけだから、その始源の状態をもういちどとりもどすのに、このような野外劇場は、案外うってつけといえるかも知れない。
合掌造りの内部というより日本的な舞台と半円形劇場というより西欧的な舞台の二つを同じ場所につくって感じることは、近代化の産物であるあの多目的劇場という中途半端な空間より、こういう表象性に富んだ特殊な舞台の方がより緊迫感を生む可能にみちているということだ。個性の強い劇団ほどその力強さがこういう場所で発揮されることの分かったことが、私にとってこの夏の世界演劇祭からの大きい収穫であった。
(朝日新聞 1982.9)