利賀を彩った人々PEOPLE

1935年~1983年。
劇作家、演出家、歌人。演劇実験室天井棧敷主宰。
  
「奴婢訓」 天井棧敷 利賀山房 (利賀フェスティバル82)
 
鈴木忠志の古典紀行
同じ頃、ニューヨークのラ・ママ実験劇場でも「トロイアの女」(アンドレー・サリバン演出)がオープニングされた。
サリバンは、私の友人で、天井桟敷の演劇理論にきわめて近い方法を持った演出家である。
彼は、開演前のロビーの観客の中にコロスを配しておいた。だれが観客で、だれが出演者かわからぬまま、ほとんど噂話かゴシップのようにして「メロス島の大虐殺」が語られた。
サリバンにとって、何もない劇場空間は「メロス島」に換喩されて、提示されてある。それは、エウリピデスが、自由と平等の理想国家として愛していたものが、そのまま持ちこまれたような、ささやかなユートピアである。
  裸の少女たち、母乳を与えられている赤児たち、窓からさしこんでくる街の灯、子守唄、そこへ、ドアがあき、観客たちは「劇を観るために」ドッと入場してくる。観客たちは、自分たちが、この劇に於いて、ピロクラテスの指揮するアテナイ人の軍隊を演じていることに気ずかぬまま、俳優たちを指さし、哄笑し、「鑑賞さえもしてしまう」のである。このことは、ツキュディデスの「戦史」が、「アテナイ人たちは、メロス人たちを捕え、成年男子すべてを殺し、おんな子供らを奴隷にした」と語っていることと、二重性をもって展開する。「国家」への始源的な間いを、劇構造の中に内包しながら展開してゆく、エウリピデス劇は、そのまま現代ギリシアの政治状況を透視し、パレスチナ問題にまで突きあたらざるを得ぬ、という演出方法である。

鈴木忠志は、同じ劇をプロセニアムの中に限定し、3人の語り部によって語らせる方法をとった。これは、鈴木が長い間打ちこんできた、受肉劇(言語の桎梏によって、俳優の肉体を極限までつきつめてゆく方法)であり、古典的で正当的な方法であった。
「トロイアの女」は、そうした鈴木の方法の、一つの見事な成果だと言うことはできるだろう。観客は、メロス島やアテナイ国家を、きわめて醒めた目で異化し、あくまでも知識としてエウリピデスと対峙する。
現在の小劇場の分断状況は、言語の日常化をいそぎすぎ、日常の言語化という思想的な営為をなまけている。そうした中で、日常的現実原則を切りはなした言語、より始源的な意味での「言藁さがし」の旅に出かけた。鈴木の古典紀行は、まちがっていなかったと思う。
鈴木は、さらにさらに古典紀行の中で難渋化し、サービスを廃し、言語が王国の城壁と同じ厚みをもち、ときには人の胸を刺す凶器のするどさを持つものだ、ということを検証して見せるべきであろう。
「トロイアの女」では、霊媒的な語り部としてあらわれてくる3人のうち、私には観世寿夫の印象が、とりわけて極立っていた。
せまい岩波ホールのプロセニアムを、限定された密室として扱い、花道なども用いず、ほとんど言語だけで進行してゆき、後半、現代と通底してゆくとき(その現代も、プロセニアムの中に限定されていたという奇異さはあるにしても)鈴木の意図は、生かされてくる。いま、私がもっともライバル視できる演出家を1人挙げよ、といわれれば、鈴木忠志だと言うことになるかもしれない。
勿論、それは鈴木が私からもっとも遠い場所で演劇を考えている1人だという意味をふくめてである。
詩を書くことからはじめた私には、いつでも「たかが言語で……」という思いがつきまとっている。私が「トロイアの女」を演出することになったら、私は鈴木のようにツキュディデスなどにならず、タルテュビオスになるだろう、と思うのである。
(岩波ホール「友」 1975.1)