利賀を彩った人々PEOPLE

1935年生まれ。
小説家。主な著書に『万延元年のフットボール』、『同時代ゲーム』、『燃えあがる緑の木』、『取り替え子(チェンジリング)』など。

「祈り」について
 チェホフの『三人姉妹』を、あまり会うことはないが独自の綜合的な才能として敬意をいだいている友、鈴木忠志が、かれの方法の、ある完成度を示しながら演出した舞台を、時を置いて二度見た。そのたびごと僕がしだいに深く説得された鈴木の演出は、チェホフの戯曲を念入りに解きほぐして、抽象化し、その方向づけでリアリティーの今日的な強化をなしとげたものだ。そこには第一幕と第四幕を合体したものしかなく、つまりは第二幕、第三幕における劇的展開は実在しない。しかし第四幕の結びをなす三人姉妹それぞれの台詞は、小動物の死体のようなものがわし掴みにされて眼の前に突き出されるのを見るように、痛ましいほどはっきりと、かつは感動的に受けとめられるものだった。いわば劇的な連続性などなにものかと、こちらの能動的想像力をさそうリアリティーにおいて。いまあらためて神西清訳のテキストを読むと、じつはそこでもやはり連続性はなしに、しかしリアリティーをこめたメッセージがつたわるようであるのに驚く。つまり僕のなかで、鈴木忠志演出がいまや動かしがたいのだ。
マーシャ まあ、あの楽隊のおと! あの人たちは発っていく。一人はもうすっかり、永遠に逝ってしまったし、わたしたちだけここに残って、またわたしたちの生活をはじめるのだわ。生きていかなければ……。生きていかなければねえ。……
イリーナ(頭を、オーリガの胸にもたせて)やがて時が来れば、どうしてこんなことがあるのか、なんのためにこんな苦しみがあるのか、みんなわかるのよ。わからないことは、何ひとつなくなるのよ。でもまだ当分は、こうして生きていかなければ……働かなくちゃ、ただもう働かなくてはねえ! あした、あたしは一人で発つわ。学校で子供たちを教えて、自分の一生を、もしかしてあたしでも、役に立てるかもしれない人たちのために、ささげるわ。今は秋ね。もうじき冬が来て、雪がつもるだろうけど、あたし働くわ、働くわ。……
オーリガ(ふたりの妹を抱きしめる)楽隊は、あんなに楽しそうに、力づよく鳴っている。あれを聞いていると、生きていきたいと思うわ! まあ、どうだろう! やがて時がたつと、わたしたちも永久にこの世にわかれて、忘れられてしまう。わたしたちの顔も、声も、なんにん姉妹(きょうだい)だったかということも、みんな忘れられてしまう。でも、わたしたちの苦しみは、あとに生きる人たちの悦びに変って、幸福と平和が、この地上におとずれるだろう。そして、現在こうして生きている人たちを、なつかしく思い出して、祝福してくれることだろう。ああ、可愛い妹たち、わたしたちの生活は、まだおしまいじゃないわ。生きていきましょうよ! 楽隊は、あんなに楽しそうに、あんなにうれしそうに鳴っている。あれを聞いていると、もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。……それがわかったら、それがわかったらね!》(新潮世界文学版)
ここに表明されているそれぞれの自己表白を、グロテスク・リアリズムのイメージ・システムとして現実化した舞台を見ながら、僕はほかならぬ祈りの声を聴きつづけるようだったのだ。それもいかにも今日的な……
(「最後の小説」 1988)