利賀を彩った人々PEOPLE

1962年生まれ。
劇作家、演出家。青年団主宰。大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授。舞台芸術財団演劇人会議理事長(2010年より)。加納幸和、宮城聰、安田雅弘と共に【P4】のメンバーとして「利賀・新緑(はるの)フェスティバル」の企画・運営を行う。利賀演劇人コンクールの審査員を務める。
 
「火宅か修羅か」 青年団 利賀山房 (利賀・新緑フェスティバル95)
「冒険王」 青年団 新利賀山房 (利賀・新緑フェスティバル96)
「バルカン動物園」 青年団 スタジオ (利賀・新緑フェスティバル97)
「東京ノート」 青年団 利賀山房 (利賀・新緑フェスティバル98)
「海よりも長い夜」 青年団 利賀山房 (利賀・新緑フェスティバル99)
「ソウル市民1919」 青年団 利賀山房 (利賀・新緑フェスティバル2000)
「上野動物園再々々襲撃」 青年団 利賀山房 (利賀・新緑フェスティバル2001)
「隣にいても一人」 青年団 創造交流館芸術劇場 (第20回BeSeTo演劇祭)  
 
シンポジウム「【P4】の会」 新利賀山房 (利賀フェスティバル94)
【P4】シンポジウム「<演出家の方法>実践的デモンストレーション」 新利賀山房 (利賀・新緑フェスティバル95)
「【P4】ワークショップ-俳優の条件-」 グルメ館 (利賀・新緑フェスティバル96)
「4名によるフリーディスカッションと質疑応答」 グルメ館 (利賀・新緑フェスティバル96)
「【P4】シンポジウム」 (利賀・新緑フェスティバル97)
シンポジウム「【P4】作品について」 スタジオ (利賀・新緑フェスティバル98)
シンポジウム「フェスティバルをふりかえって」 センター (利賀・新緑フェスティバル98)
「シンポジウム1」 新利賀山房 (利賀・新緑フェスティバル99)
シンポジウム2「若い演劇人のための集中講座」 (利賀・新緑フェスティバル99)
討論「平田オリザ徹底解剖」 スタジオ (利賀・新緑フェスティバル2000)
「シンポジウム1」 スタジオ (利賀・新緑フェスティバル2000)
「シンポジウム1」 スタジオ (利賀・新緑フェスティバル2001)
対談とQ&A「舞台芸術の未来-文化と地域主権」第1回 利賀山房 (SCOTサマー・シーズン2010)
シンポジウム「文化芸術の力―世界演劇祭と地域の発展」 新利賀山房 (利賀舞台芸術シンポジウム)
 
「狂」の許される場所
 初めて利賀村を訪れたのが1993年だから、もう18年間、春か夏に必ず一、二度は、この山村を訪れていることになる。90年代後半には、毎年ここで新作を作ったし、2000年からの6年間は大学の学生を連れて演劇合宿を行った。
利賀村に向かう際、自分で車を運転するときには、砺波インターからの道をたどることが多い。庄川の温泉郷のあたりから分け入って、いよいよ  利賀村への山道を登り出すと、なぜだかほっとした気分になる。
いったい、これはどうしたことだろう。

70年代半ば、鈴木忠志氏率いる早稲田小劇場が利賀村に移り住んだ頃は、赤軍派の残党かと疑われたものだと、鈴木氏自身から伺ったことがある。あるいは、当時、東京の演劇界では「早稲田小劇場は集団発狂した」と揶揄されたとも聞いた。
「狂」という文字、ましてや「発狂」という語句は、いまでは大新聞などだと、ずいぶん使うのにためらわれるようになってしまった。昔はもう少し大らかだったようで、たとえば、司馬遼太郎氏は、以下のようなことを言っている。
「思想というのは、本来完璧なかたちでは化学の結晶体を取り出すような作業が必要なものであって、何よりも論理的に完璧なものでなかったらいかんと思うのですよ。(中略)その思想が政治思想である場合、それを現実化したいという欲求が生まれる。それを地上のものにしたいという本来無理な欲求が出るときに個人の肉体のなかで狂気が生まれるわけです」(「日本人の狂と死」・朝日ジャーナル1971年1月1・8日号)
「スズキ・メソッド」と呼ばれる俳優訓練法は、現在では世界各国の演劇学校、大学の演劇科などでも採用されていることは広く知られている。しかし、その基礎となる鈴木氏の演劇論は、より深遠な「思想」と呼ぶべきものであり、その現実化の形が「スズキ・メソッド」だと考えた方がいいだろう。
半可通の評論家は、その思想や論理と実践の間に矛盾を見いだして、鬼の首を取ったかのように言い立てるが、矛盾のない芸術作品などあり得ない。みずから書いた教科書通りに作品を作る表現者などいない。
思想や論理を実践化しようとすると個人の中に様々な矛盾が生じ、その矛盾を克服しようとすれば、そこに自ずと狂気が生まれる。演劇は、その狂気を集団で共有する営みで、そこには一定の時間が必要となる。もちろん一方で、演劇は観客なしには成り立たないから、いずれ、どんな狂気も、少しずつ社会に飼い慣らされ沈静化する。その停滞の中から、おそらくまた新しい芸術が生まれてくる。
何か新しい様式を生みだそうすると、私たち演劇人は、それを集団で継続して行わなければならない。それが演劇のやっかいなところだ。だが、東京の演劇界は、その成熟を待ってくれないし、俳優たちは日々の生活に追われ、何かを深め共有する時間がもてない。
本来、劇場とは、そのような芸術家たちを、世間の荒波や「常識」という汚染から守り、狂気を育て、そしてまた鎮める場所であったはずだ。しかし、残念ながら、日本の多くの劇場は、そのようなことのためには機能してこなかった。

60年代、日本の演劇界の大きな転換点に登場してきた幾人もの演出家のなかで、鈴木氏のみが、いまも国際的に活躍をしていることは、単なる偶然や幸運の所産ではないだろう。「狂」の季節を乗り越え、それを実践へと結びつけることに成功した者だけが、革命家の栄光を手にする。その 孤独に耐える時間に、利賀村が寄与した部分は大きい。
ここでは「狂」が許される。
「狂」という文字を使うことさえ憚られるような世の中で、この地だけは、その心根を慈しみ、抱擁し、育ててくれる。

1995年から7年間にわたって開催された「利賀・新緑フェスティバル」に、私は毎年参加し、そして毎年のように、「あぁ、なんて私の芝居は『普通』なんだろう」とため息をついた。
フェスティバル開催の仲間でもある他の演出家たちは、シェイクスピアやギリシャ悲劇や歌舞伎の名作を、斬新な演出で提示した。一方、私は毎年、美術館のロビーや、科学の実験室を通り過ぎる市井の人々の生活や会話を掬い取るような作品ばかりを創ってきた。しかし、静けさの中にも 「狂」はあるのだ。そして、そのことをもまた、利賀の山々や川のせせらぎは理解してくれる。
90年代、私が提唱した新しい方法論が、単なる流行に終わらずに、幾人かの優れた後継を生み出せたことは、やはり利賀で過ごした時間と無関係ではない。
この度私は、縁あって、舞台芸術財団演劇人会議の理事長を、鈴木氏から引き継ぐこととなった。私の方法論と、劇団のもう一段の成熟のために、今年からまた、利賀村での時間を少しずつ増やしていきたいと願っている。
(藝文とやま 2011)