利賀を彩った人々PEOPLE

1904年~1988年。
フランス文学者。主な著書に『ルソー研究』、『第二芸術論』、『フランス革命の研究』(共著)など。

利賀村で見たもの
利賀フェスティバルは7月23日から2週間にわたって開催された。「世界演劇祭」の名にそむかず、地元利賀村の獅子舞をはじめ日本側の多くの公演があったほか、アメリカ、イギリス、ポーランド、インド、ブータンからの参加があって、意義深い盛会であったことは、新聞、放送などの伝えたとおりである。
私は開会式にも招待されていたが、それには行けず、ブータン仮面舞踊の公演された8月4、5両日だけ参加した。この舞踊団を招くことについて日本ブータン友好協会長の私は多少の努力をしたのである。4日朝、友人が武生から車を馳せて迎えに来てくれた。途中福野町に善本秀作氏の木彫、城端町に岩城信嘉氏の石彫を感銘深く見た。岩城氏は率直な明るい話しぶりだったが、ブータン舞踊の話をすると、明夜見に行くが、団員には何のおみやげをあげるのかときき、私に何の用意もないことを知ると、それじゃ私が余技だが色紙をかいてあげましょう、といって墨をすり出した。速筆だが神経質に気に入らぬのを捨ててゆくので、18枚の抽象的な仏画を描くのに時間がかかった。それをニッ屋石の小石像一つとともに有りがたく頂戴して車を走らせたが、利賀は面積の大きい村で会場へ着いたのは6時前であった。鈴木忠志氏が土地の民家を買って改築したというリュックスを押し込んだ古くてモダンな家に泊めていただいた。
岩魚を食べさせるという村唯一の料理屋へ車を走らせた。養殖岩魚は巨きくまるまると肥えていて渓流を思わせるものではない。味とは何か。4人で1万円にもならぬ安さを前に理屈をこねるのはおかしかろう。
公演の行われた野外劇場はコンクリート半円形、直径33.6メートル、およそ6、7百人を収容できるが、両日とも満席で、一時雨が降ったが帰る人はなかった。舞台の背後は池になっており、水中に植えられた勅便河原宏氏の竹のオブジェにとても風惰があったが、夜は見えない。
今度来日したのは16人。舞踊しない団長ダショ・シティ氏はふっくらとした体軀だが、あとはみな痩身で土踏まずが深いのが印象的だった。十分訓練をつんだと思われる彼らの舞踊は興味深く眺められた。
仮面舞踊は初日に6曲、2日目に4曲。説明書はそれぞれが天上の舞、英雄の踊り、悪魔の敗北、等々を示すとして登場の高僧の固有名詞まで添えているが、私たちしろうとにはすべて同工異曲というふうに見える。共通な基本的な幾つかの身ぶりの型があり、どの舞踊もそれらの組合せからできているが、その一々の身ぶりそのものは、緩急の別はあるけれども、それぞれの意味をになってはいないのである。ドラ、ホーン、小太鼓のような楽器の伴奏はあるが、それは舞踊の意味内容とは無関係である。
一人舞はない。4人から12人くらいまでの偶数の踊り手が群舞するのだが、それは各人が同じ身ぶりで踊っているのの集合で、グループを一つの意志の下に統一して全体的な美を構成しようという意図は感じられない。グループの中で一人だけが叫びを発することがあり、説明をきくと、それはリーダーで、その叫びの合図に応じて舞踊の緩急のテンポが変わるのだというが、その程度である。私は舞踊なるものの原型を見る思いがした。沖縄の舞の手ぶり身ぶりは美しく、それと同時に歌われることばは哀切だが、身ぶりは型どおりで意味を現わそうとしない。それよりさらに古い。
2日目に一つやや演劇的なものがあって、聖者が荒々しい狩人から鹿を救い、狩人を改心させるという筋はわかったが、道化役の演枝が極めて特異であった。どこの系統かわからなかった。
この仮面舞踊は本来宗教的行事で、仏の栄光のためであって美的鑑賞のためのものではない。だから女人は一切寄せつけないのだという。
(1982)